自己肯定感を高めようとして疲れた僕がたどり着いた自己慈愛という考え方
「自己肯定感を高めましょう」
「自己肯定感を高める方法とは!」
そういう言葉を、何度も目にしてきました。
そんな自己肯定感をテーマにしている本を読んで、セミナーに参加して、ワークをやってみて。
でも、やればやるほど、なんか苦しくなっていく感覚がありました。
自己肯定感を高めようとすればするほど、逆に自分のダメなところが目についてしまう。
そのループに長い間はまっていた僕が、ある考え方に出会ってから、少しずつ変わってきました。
今回は、「自己肯定感」に違和感を感じ続けた僕が、たどり着いた「自己慈愛」という考え方についての話をします。
自己肯定感を高めようとするほど、しんどくなっていった

自己肯定感を高めようと、いろんな方法を試しました。
でも、試すたびに、なんか違うという感覚が残っていくんですよね。
いいところを見つけようとすると、上には上がいると気づいてしまう
自己肯定感を高めるための方法として、「自分のいいところをたくさん見つけましょう」「自分にできることを増やしましょう」というアドバイスをよく目にします。
自己肯定感が高そうな人が言っていることなので、疑いもせずにやってみました。
自分のいいところをノートに書き出してみたり、できることを増やそうと頑張ったりしました。
でも、書いているうちに気づいてしまうんです。
上には上がいる、と。
「僕はこれが得意だ」と思っても、それをもっと上手にやっている人がいる。
「これができるようになった」と思っても、最初からそれができる人がいる。
比べるつもりがなくても、自然と比べてしまう。
HSS型HSPという特性もあって、周りの情報を敏感に拾ってしまうんですよね。
自分を肯定しようとすればするほど、できていないことや劣っているところが目について、むしろ自己肯定感がさらに下がっていく。
そんなループにはまっていました。
昔の僕みたいな人は、意外と多いんじゃないかなと思っています。
「自己肯定感を高めようとすることで、逆に自己肯定感が下がっていく」という皮肉なことが起きていたんです。
良いことメモが続かないと、さらに自己肯定感が下がるループ
「その日にあった良いことを3つ書きましょう」という方法も有名ですよね。
これもやってみました。
でも、良いことがなかなか見つからない日があるんです。
「今日、良いことあったかな……」と考えても、思い浮かばない。
そうすると「良いことも見つけられない自分はダメだな」とか、「良いことが起こらないということはまだまだなにかやらないといけないことがあるのかな?」という気持ちになってしまいます。
しかも、そのメモ自体が続かなくなると、「また続けられなかった」という気持ちも重なり、さらに自己肯定感が下がってしまうという、負のループ。
自己肯定感を高めるための行動が、逆に自己肯定感を下げていく。
なんか、根本的に違う気がするな、そことどうやっていけばいいんだろう?とその頃から思っていました。
良いことメモをすることは、すごくいいことだとは思いますが、僕にとっては「できなかった自分」の証拠にしてしまっていたんだと、今は思っています。
違和感はあった。でも答えがわからなかった

しっくりこないという感覚は、ずっとありました。
でも、それをどう解決すればいいのか、もがいてももがいても全然わからなかったことを覚えています。
やっと、その出口を見つけたのは今から約1年前の2025年5月ごろのことです。
「自己肯定感を高めよう」という方向性にずっとしっくりこなかった
「自己肯定感を高めよう」という言葉自体に、どこかずっと違和感がありました。
でも、その違和感をうまく言葉にできなかった。
そして、さらにその解決策も分からなかった。
「なんか違う気がするけど、じゃあ何が正しいの?」という状態で、答えを探し続けていました。
本を読んだり、いろんな考え方を調べたり、しっくりくる言葉を探し回っていました。
HSPという特性もあって、「これで本当にいいのかな」と深く考えすぎてしまう部分がさらに迷いを深めていたんでしょうね。
答えが見つからないまま、ずるずると時間だけが過ぎていく感じがしていました。
講座に参加して、やっと言語化できた
ある時、しっくりくる考え方を持っている方と出会いました。
そこで初めて、ずっと感じていた違和感が言語化されたんです。
「自己肯定感というのは、自分のやっていることや考えていることが正解だと捉えること。でも、この世の中に正解も不正解もない。肯定しようとしている間は、まだ世間の価値観に揺さぶられている状態。」
ちょっと言葉は違いますが、聞いた瞬間、「あ、これだ」と思いました。
自己肯定感を高めようとするということは、裏を返せば「今の自分は肯定できていない」という前提があるということ。
その前提自体が、しんどさを生んでいたんだと、その時気づきました。
自己肯定感より、自己慈愛という考え方

違和感の正体がわかってから、少しずつ考え方が変わっていきました。
正解かどうかじゃなくて、自分が自分の味方であり続けること
自己慈愛というのは、合っているかどうかに関係なく、自分で自分をいたわること。
最愛の子どもを褒めるように、自分で自分に「よくやっているよ」「大丈夫だよ」と声をかけること。
自己肯定感は「自分は正しい・できる・価値がある」という状態を目指すもの。
それで、楽しく生きられるようになったとしても、それは条件付きの楽しさなんです。
想像してみてください。
なんかができる、何かが正しいというものが、いつかできなくなったり、間違っていたと気づいた時。
一気に自己肯定感は下がってしまいます。
でも自己慈愛は、正しくても間違っていても、できてもできなくても、「それでも自分の味方でいる」という姿勢のことだと思っています。
そこに比較が入る余地がない。
上に誰かがいても関係ない。
昨日の自分より劣っていても関係ない。
ただ、自分が自分の味方であり続ける。
言ってみれば、自分の最高の味方は自分。
この考え方に出会ってから、比べることへの疲れが少しずつ消えていきました。
できたことも、できなかったことも、全部ひっくるめて「よくがんばった」と言う
以前は、その日のやることリストを作って、できるだけこなそうと頑張っていました。
でも、できなかったことがあると「やっぱり自分はダメだ」という気持ちになっていました。
今は、できなかったことがあっても、こう自分に声をかけるようにしています。
「これだけできたから、よくやった。」
「できなかったこともあるけど、それだけ頑張っていたんだから、えらい。」
「無理にやっていたら良くないことが起こっていたかもしれないから、ちょうどよかったんだろうな。」
できたことを褒めるだけじゃなくて、できなかったことも含めて、全部ひっくるめていたわる。
そういう感覚に変えてから、心が少しずつ穏やかになってきた気がします。
そして不思議なことに、自分をいたわれるようになってからの方が、逆にいろんなことができるようになってきたような感覚さえもあります。
責めることをやめたら、動けるようになってきた。
そんな感覚です。
まとめ:自分をいたわることが、生きやすさの一番の土台になる
巷に流れている、自己肯定感を高めるという風潮を否定する気持ちはありません。
僕自身も救われたところもあるし、それで救われる人もいると思います。
ただ、いろいろ溜めいていく中で、自己肯定感を高めようとすること自体が、逆に自分を苦しめていたということに僕は辿り着いたというだけです。
そのことに気づくまで、かなり時間がかかりました。
正解を肯定しようとするのではなく、正解でも不正解でも、自分の味方でいる。
できてもできなくても、全部ひっくるめて「よくがんばった」と言ってあげる。
その繰り返しが、じわじわと生きやすさに繋がっていく気がしています。
まだ僕自身も実験中の身ではあるし、うまくできない日もあります。
妻との関係もなにもよくなっていません。
でも、自分をいたわることを諦めないでいようと思っています。
今回の話が、同じような違和感を感じている方に、少しでも届いたら嬉しいです。


